青葉が茂る5月に行われた「卒業50周年記念古稀同窓会」から早くも半年が経過しました。この時、多くの写真を撮ってくれた川内さんとの縁で情報交換が始まり、川内さんがボランティア活動に精を出されていること、また素晴らしい芸術作品である「書」を発表されていることを知りました。これはぜひ同期の皆さんにも一読して頂き、併せて「書」の観賞をしてもらえればと思い、西高ホームページへの掲載を勧めておりましたが、このほどやっと同意を得ましたので、下記に紹介させて頂きます。(右田俊博)
【はじめに】
本原稿は今年9月に開催された第31回長崎西高関西同窓会の機関誌「自律の園」の中に掲載された私の随想から転用したものです。またそこから感じたものを「書」に表して、第33回「太洋美術展」に出展しました。太洋美術展は今年7月、兵庫県民会館アートギャラリーで開かれたものです。なお、昨年は同展に被爆者として「原爆考」を出展し、兵庫県知事賞を受賞しました。
本年7月に出展した作品です。
左:「眉秀でたる若人よ
眸をあげよ涯遠く」
右:「甦れ大和(ヤマト)」
作品の前で同期の二人と
左:松崎陽二君
中:小生
右:上崎洋夫君
昨年出展「兵庫県知事賞」を受賞した「原爆行」 (写真は異業種交流会の友人)
【本 文】
東日本大震災から早1年が過ぎ去り、この間に我々は何を学び何を失ったのだろうか?
私は昨年12月に災害地を訪問した。直接のボランティア救援対策ではなく、小学校の凧上げの指導が目的だった。その際現地で感じたことと昨今の復旧対策を見ていて感じたことを思うまま述べてみたい。
場所はあの宮城県南三陸町だ。津波の到来を最後までアナウンスし続け、自らは津波に呑み込まれて尊い若い生命を無くした女性がいました。あの時の無残な姿を残す庁舎がそのまま残っていた。当時10ヶ月を経たにも関わらず、全地域一帯の空間は残酷の一言。翌日は7万本の松林の中で、唯一残ったあの一本松の撤去が決定したという情報を得て見に行った。入り組んだ海岸線を走り、陸前高田市へと進む途中で見聞きしたことは、想像を絶するもので、災害現場を見ながら津波という自然の驚異が目に焼き付いて離れなかった。メディアが放映する情報はごく一部であり、真実から遠いことも学んだ。また目にする現状は「復旧」には程遠い現状であり、「復興」という言葉は無責任と思った。そこで風評による弊害も知った。最近の復旧実態は分からないが、当時盛んに言われた『絆』のキャンペーンは何処に流れたのか。
(左図は今年の関西西高同窓会の総会案内会報の表紙です。1本松をイメージしたものしたもの)
例えばガレキ処理での国民の関心はエゴの塊。経済大国を自認する国民の後ろ姿が恥ずかしい。その中に小生も同席しているのかと思えば残念無念。古き佳き日本人はいつの頃から居なくなったのか。潔さ、責任感や気配り、サムライ魂など恥の文化は不要なのか?『衣食足りて礼節を忘れたのか』と一人ごと。
さて、訪問先は私が所属する『日本凧の会・風人』が200枚の和凧を作り、現地へ贈ったことが縁となって会員4人で訪れた志津川小学校です。この小学校6年生の6時限授業で凧上げ指導を行った。この学校は高台にあって、全児童は無事だったが、全ての子が親族や家屋などで被害に遭っていたという状況だった。そうした環境の中で初めての凧上げ(長崎ではハタ、ここでは日本各地の伝統凧)に挑戦する58名の眸は輝いていた。微風の中で上手く揚がるかと心配したが、真剣に校庭を走り回る姿に我々が逆に勇気を頂戴した。
私は大震災は良き教訓(生活様式を見直す機会)だと自覚した。そこで災害地復旧のための手伝いの提案です。≪眉秀でたる若人よ≫何か良き知恵がありませんか。「同窓会でやれる世話活動が出来れば」との提議です。日本のピンチを皆さんと共に乗り切ることが出来ると確信します。若い世代にツケを残さないためにも挑戦しませんか。思い付きなり、何なりと連絡をお待ちします。