ある友 忘れがたい笑顔のこと
あまりにもよく晴れて、あの日差しの明るい優しさから考えると、季節は初夏だったように思いますが、時期の記憶ははっきりしません。
まさかそんな事になるとは思わなかったため、卒業してからも、幾度も幾度も、その光景を思い返すうちに、記憶さえも、その一番大切な、忘れてはならないものだけに収斂されてしまったのかもしれません。
西高三年生の時です。
授業中に、ある生徒、私たちは女子クラスだったので、つまり女性徒のNさんこと中島さんがお腹が痛いということでその日はそのまま下校されることになりました。
担任の先生に彼女のお家まで付き添って行くように言われ、筆者の私は彼女の様子を心配しながら、西高の裏門から下界に降り、それからゴットンゴットンの電車に15分ばかり乗ってそのお供をしました。
その間にも、彼女は、当たり前ですが西高の制服を着て、くっきりしたスカートの襞の上にきちんと鞄を載せ、端正に座席に座っておられました。その時は、痛みも納まっておられたかのか、ふたり何かしらお互いニコニコと笑顔を交わしていました。その印象が今もあざやかです。
盲腸の痛みであったそうです。その当時(それはいまだに正しい知識かどうかわかりませんが)よく聞く盲腸の手術ということであり、すぐにでも快癒し、元気に教室に帰ってこられるとばかり思っていました。
しかし残念極まりなく、それから数日後、彼女の悲報が担任の先生によって私たちに届けられました。
腹膜炎を併発こされたとのこと。その後のお葬式にはクラス全員でご自宅に弔問に上がったことはいうまでありません。やや厚めの唇がいつもしっかりと結ばれ、リンゴの頬ッペ、温かく真面目なお人柄を、よく思い出します。
話は現在に至り、特に思うことは、西高同期の同窓会では、どんな会場・目的であっても、その時の開会に当たって毎回必ず真っ先に、今は逝去された方々の哀悼を深くし、そのご冥福をお祈りします。
それは本当に厳粛で真摯なひとときであり、同窓会・同期会のあらゆる意義の中に最も有意義なものであると、私はいつも、敬意と感謝を捧げて共にお祈りをいたします。
併せて、最近ふと思うのは「卒業した」がゆえの卒業生であるなら、彼女のように、在校途中での早世の事実は、もしかして、公的事務処理上は「その卒業生ではない」のではないかと。それならたとえ書類上だけのことでも、さびしいものだなぁと。人生ってときに、こういう場面もありうるものでしょうね。
まぁ、その寂しさを吹き飛ばす法があるだろうか。以下思案してたどりつく・・・。
こりゃーやっぱり、黄綬褒章か、ノーベル賞ばとらんといかんやったね。あとはアラブの大金持ちと派手〜に結婚して、その誓約条項に、愛する花嫁の通過母校の各校に耐震建築の大サッカー場を寄付するとか一筆。実現。そうすると、在校一日でも「名誉卒業生」待遇となりうる。
まだまだ夢はあるある、つづく続く。希望の新年へ。それには何より。健康でいきましょう。