「またまたお前か?」と言われそうで、本当は遠慮したいのですが、新しい投稿者の出現を期待して、繋ぎの意味で「旧聞プラス新聞(?)」の情報をUPさせて頂きます。
私達西高14回生が卒業したのが昭和37年でした。私はその年に上京したのですが、それ以来、陰に陽にお世話になったのが、西高4回生の先輩で小生の遠縁に当たるYさんでした。当然年齢は10歳上になりますが、リタイア後は軽井沢に住まわれ、彫刻画等の製作に没頭されておりました。しかし寄る年波に冬の寒さが堪えられなくなったのか、数年前から湘南の地に移転されてきました。
先日久し振りにお会いしてご夫妻ともども会食し、我々14回生の同窓会のこと、それに繋がるホームページのこと、さらに現在の西高の様子など、パソコンを開いて見聞しながら、草創当時の西高の様子なども聴かせて頂きました。先輩も現在の西高の文武に亘る活躍に就いては各種メディアを通して承知していたようでした。
私が認識している西高の成り立ちに就いては昭和23年4月の学制改革により、県立長崎中学と県立瓊浦中学、県立長崎女子中学が統合されて、新たに県立長崎東高と西高に分割されて新制高等学校に移行したということでした。調べてみると、いきなり統合・分割されたのではなく、一旦それぞれ長崎高校、長崎女子高、瓊浦高校、さらに市立女子中を女子高に改めた上、同年11月にそれら4校を統合して、新たに県立長崎東高と長崎西高に分割して発足したというのが事実でした。
長崎西高は当時鳴滝の地にありましたが、(因みに東高は西山町の旧長崎女子高の校舎を利用)、昭和25年8月、現在の竹の久保町(旧瓊浦高校跡地)に移転しました。何故こんな事を書くかというと、先輩のYさんが実は移転後の一期生だったということで、HPにUPされた当時の校舎の写真を見たり、1年の時に教わった英語の早水先生が共通の教師だったりして、大変感慨深げでした。
そして特筆すべきは、西高校歌のことです。昭和26年春と夏、西高は初めて西九州代表として甲子園出場を果たしました。(因みに戦後は昭和24年夏に長崎東が初出場)、これを機に12月に「眉秀でたる若人よ」が制定されました。ということは甲子園ではまだ校歌は歌われていなかったということになります。Yさんは野球部ではありませんでしたが、当時のエース三木さんとは親しかったそうです。
校歌「眉秀でたる若人よ」は歌詞も曲も秀逸の作品だと誰しも推しますが、作詞・作曲者を近年まで知りませんでした。分かったところでは作詞が当時北海道大学教授の風巻景次郎氏、作曲が東京芸術大学教授長谷川良夫氏でした。校名が入っていないところがなんともシャレていて何年たっても色褪せない素晴らしい校歌を残してくれました。卒業生の末端を汚すOBとして本当に感謝申し上げるとともに、是非生きているうちに甲子園から母校の校歌が全国放送される日の来ることを望んで止みません。