歌う中に青春 青春の時に歌が……
「眉秀でたる若人よ」(作詞・風巻景次郎 作曲・長谷川良夫 )
眸をあげよ 涯遠く 風かがやかし 丘の上
こころは清く凛として 眉秀でたる若人よ
自律の園を守らずや 自律の園を守らずや
ああ新世の 歌声に わが山々よ こだませよ
明るき学園の 窓ひろく 白亜に映る 空青し
眼はひろく 陰翳りなく 自由にたてる 創造の
叡智は薫る かんばしく 叡智は薫る かんばしく
ああ若々し 学舎に 行く白雲よ ほほ笑めよ
入江は深き 新潮に 世界の船の 集いきて
文化の黎明 あらしめし 歴史はふりず 永遠に
平和の鐘は鳴りつづく 平和の鐘は鳴りつづく
ああ美しき長崎の 夢あたらしく 花咲けよ
9・10・11・12そして1・2の3月。この三月で、当ホームページが立ち上がりもう半年になります。思いがけずここに寄稿の機会をいただき、最近つくづく実感するのはホームページは生きているということです。躍動といっていい。
主に活字、それも紙の上の文字の環境が多い、アナログ人間の私は、このホームページ世界に縁ができて、これはまるで踏み切りを渡る時のような、また横断歩道を渡るような、右を見て左を見て、上を見て下を見て……、どころか昨日を見て明日まで見て、目配りしている自分に気づきます。それでやっとそろりそろりと、「校歌」の話題を持ち出すタイミングと、いまを見計らいました。
今頃ここに「何事か?」と思われるかもしれない、母校・西高の校歌を全文掲載?ですが、あらためて口ずさみながら、その「文章」また「詩歌」をじっくりと見つめたいのです。それも自分一人の世界としてではなく、この校歌を歌える環境(つまり同窓)の友達と共に語りたかった、そんな風に思って。それは五月、古稀記念同窓会の場以来の思いでした。あの時の皆の笑顔。童心。
まず何より、立派な作詩・作曲の先生に恵まれたこの歌が音楽として、実際にちゃんと歌えるように、最初に指導してくださったのは何よりも、他ならぬ美佐子先生です。先生ありがとうございます。
そしてその美佐子先生の同じピアノで
合唱できるという、生まの生徒として、こんな幸福が他にあるだろうか。その思いが窓の外、千里を駆けめぐり…。でもこれ、別名、授業中なら「よそ見」。
その五月に、当日出席した友、あいにく出席ででなかった友の如何を問わず、一つの学校の行事を通して、公式にこんな幸福を享受できる学校・生徒・先生・またその時にお世話になった在校生(後輩)方のすべてに関わって実際に喜びに染まる機会に恵まれるなんて。現実が幻想的でさえあります。
というわけで、ちょうど早春二月〜弥生三月、卒業・入学のシーズンの今を迎えて、まずは歌詞の全面掲示。歌詞のあとにあげる言葉は、大和言葉で歌うべく伝統によって「そう読む」うれしさ、味わいの深さを読みたいから。
しかし、アラマ…。公立高校の校歌にして「歌詞中に学校の校名がない」ナーイということは、今や周知(的)ですが、それがアータ在学中には気づかなかった。そんな私自身はどこを向いて校歌を歌っていたのだろうか。
実生活では真実の方向音痴である私は「アンタはどこの学校を出たか、居ったか」その学校名はなんであったか、を当時ならGPSの代わりにもなるものを、意図的に書かれなかったのは、風巻先生のうっかりであろうか。それとも何かの陰謀か。北海道の校歌が多い同先生の他の作詩に触れたいものです。
−−この前の五月、母校でありながら、西高に行く道がわからなくてタクシーに乗り、当然知っているような顔をして、西高の「遅刻坂」の方と言ったら、「えっ地獄坂?」と運転手さんに返答され、頭に来た。その時、味方は単独一人だったから、母校の名誉を考えてその時からぐっと我慢したままでアルが、まだ我が心に決着がついてナイ。なお校歌の中に校名があるのは、迷子の時の貴重なインフォメーションで有る。歌だけは人間百になっても覚えているんだって、念の為−−−
話は戻り、北大の風巻先生が作詩曲され、芸大の長谷川先生が作曲された(そこに「こんな偉い、すばらしい先生方がの手になるものが西高の校歌ですよ」と感慨や感謝を込めて)そう教えて下さったのも、在校時の授業中での美佐子先生です。 この話、校歌・歌詞は掲載しないでもまた語りたいので、掲示版に、いろいろな友達方のうかがいたいですね。ぜひ。話題に何が飛び出すかわからない。それが生き物ホームページの魅力である。