西高校歌の至宝「自律」
西高校歌について、投稿欄へたちまち感想をお寄せいただき、とてもうれしいです。
tyokueiさんの−−−校名が出ない故に「西高」らしさ、「西高」そのものが卒業生や在校生に共感と誇りを持てる素晴らしい「西高校歌」に。何となく何時も思ってた校歌への想い−−−とのご意見はまさに、みんなが校歌に「何となく寄せている」そんな個人的な感覚、を言い当てておられると、共感への共感?を覚えました。ありがとうございます。
また、ヒロさんの−−−風巻慶次郎先生とその校歌作詩の余話は、長年のどにつかえていた何かがスッと取れたような、この上もない調査情報で有り難いものですねー。よーく調べてもらって驚きました。そんな情熱を支えるものこそ愛校心ですかしら。そして、そんな風に、それぞれ誰も「何となくいつも思う」が故に、在校時代にはもちろん、卒業しても人生の折々ふいと気になる、それが西高校歌の不思議さかもしれない。
そんな歌詞の中の最たるものが「自律」の語ではないでしょうか。
そして、多く友が、それはなぜ「自立ではなく自律なのか」と自問自答されたのではないかと思いますが。特に在校中は……。ひょっとしてこれは自立の間違いではないかと思いつつ、しかし自律の方が、はるかに格が上だから、まちがいではないらしい。かの有名な『仰げば尊し』では、生徒はみんなよく勉強して将来は「身を立て名を挙げ やよ励めよ」と高らかだった。つまり晴れて立身出世することが何よりの人生の成功だと督励されていた。その前提となるのが世間的にして経済的な「自立」であろうから、ハテそれとはここの自律はちょっとちがう。それにしても自律とはえらく哲学的ではないか。自立や立身出世を勧めず、ちょっと校歌として哲学的なところがかっこよくもある。ただの食べていけるだけの自立なら……昔の海賊でも山賊でも、悪名高く、ついては「身を立てて名が知られ」なのだ。いやいや、校歌ではそうじゃないのだった。
私自身、人生のこれまでには、西高校歌中の「自律」の語に立ち止まり、我が身を振り返り、という事を日常の中で何度繰り返したかわかりません。いつも思った。自律は自立よりも難しいのヨねー。その自律は、まさしく自律なのだから、誰に言われるまでなく、自分の事を自分の内側から律し、コントロールしなくっちゃいけない……。他人の眼には見えない高度な精神と身体の調整であるから、社会的な自立の問題よりもずっと難しい。巨額の親の遺産で暮らしている人があると聞いても、むしろそれは自立でさえない。自律は自立よりもさらに至難の境地なのだ。
釈尊が『独り己れを調(ととのえ)よ』と教えられている。これは自律の教えそのものでありましょう。
こうして高校の校歌の中の一節また一句が、卒業後もこれほど燦然と輝いて生徒の胸の中に灯り、言葉によって人生の核心的なあり方の教師となるとは、なんと素晴らしい話でありましょう。むしろ社会の現実生活の中で、どこでも何の場面においても、自律あって、その世界の繁栄も共存も基礎が成り立つのだ。
自律の精神のないどんな世界も、他からの敬意は決して得ることはできないし、むしろ、それのないところ、腐敗の温床でさえあり得る。自律こそ自立の母である。
−−もっとも、そんな事より私自身は自立も自律ももろくに出来ないままで今に至り、高級な話は休み休みに思わねばならないなぁと、最後にはいつも長い嘆息に終わるのです。
とにかく「自律」となれば、それは高度な哲学的な深みあるもの。よくぞ青春高校時代にこれに出会えた。
新制でありながら、旧制高等学校のいかにも文化的・教養的な伝統雰囲気を色濃く受け継ぐと言われる、西高です。勉学と運動、文武両道というか、硬軟両立バンカラとハイカラの両用自然体。そこに校歌作詩の風巻慶次郎先生ご自身の自ずから然らしめる「詩興」なり「詩境」の生むところとなった、なんとも品のいい「自律の園」という世界が、西高人(先生・生徒・先輩・後輩全部)の心をとらえてきました。おまけにその「自律の園」は我らが「守らにゃいかんのだ」「我ら以外の誰が守る」と、これが若者にぐっと来た。
勉強でも運動でも学びの中のことはなんでも、誰が敵ということはないのだけれど、この学舎(まなびや)は尊い「自律の園」だから、それが何かの他よりの侵犯に遇う時は、みんな力を合わせて「守らにゃいかん」となるのです。
そして、自律とは、自分の心・独り・一つから発するものだから、自分自身の怠け心や貪(むさぼ)りを自ら恥じ、つまり、生徒としての本分に帰することである。すなわち、自分の学生としての本分に自分から目覚める勇気をもつ督励である。そもそもいかなる創造も、自律の世界からしか生まれない。
というわけで、自律という、内面への思索を自ずから誘う言葉が、今に至れば誰いうともなく、次第に自然にみんなの心をとらえて醸され、いま立派な『校是』として定着している。
校歌の中に高校の名前がなくても「自律の園」が校名の「雅語」としてきちんと機能している。
本日はここまで。それにしても、この漢字仮名まじり字、商標ではないにしても何やら登録〜特許申請はもう済んでいるのかなぁ。「自律の園・パンダクッキー」なんぞと先を越されアンタッチャブルなんていやだー。
余談。
面白かったのは、「自律の鐘」がまだ創設されたばかりの頃、その新しい鐘の音を初めて私も校庭で聞かせてもらった機会に、その案内してくださった先生いわく。25個ある鐘のうち「一つが今、故障して鳴っとらんとですよ」。コレおかしくて仕方がなかった。何しろこちらはその鐘の音を初めて聞くのだから、どの鐘がどう鳴れが正しい曲かなんてわからない。で、それを黙って居られても(敬語)、感動の最中であり、一つくらい鳴らんでも「わからんとに」。……(当時の在校生は果たしてどうだったろうか??)
もしや、鳴らない25分の1の鐘の音を当てなさいと音楽のテストに出たらアウト。その可憐正直な先生のお名前はぱっちり覚えています。その時の鐘を見上げられるお姿もくっきり。最高の一曲でした。いい先生だなぁ。年齢的には私たちの後輩ですが母校の先生というだけで、とことわに『仰げば尊し』の存在です。