西高3年の時の修学旅行は昭和36年の真夏の暑い時期だった。当時写真部に所属していた私は多くの情景やスナップをカメラに収めた。後に、卒業アルバムの修学旅行のページにその中から何点かピックアップされた。 修学旅行は、長い貸し切り列車で編成された。 九州の地を飛び出すのは初めての経験で、あらゆるものにワクワク、ドキドキの連続だった。古都奈良・京都と大阪を巡ったあと、オリンピックを3年後に控えて、工事だらけの雑踏の首都東京を見て回った。思えば高度経済成長期のただ中、日本中が躍動感に溢れ活気づいていた。
後年日本の歴史、特に寺社仏閣、史跡を見て回ることに関心を持つようになったが、当時は都会の音楽・文化に興味深々、京都・奈良の歴史と文化については表面的にザーっと見て回っただけで、今にして思えばもったいないことだったかもしれない。 それでもいくつか記憶に焼きついた光景が残った。奈良東大寺を見学した時のこと、奈良公園で鹿と戯れ、東大寺の大仏の大きさに圧倒されたあと、教科書で学んだ校倉造りの正倉院の中に入って、その一部を見学した。特にはっきり覚えているのが長さ1.5mほどの切り取った原木、何箇所か削り取った跡があり、そこに足利義満、義政、織田信長、明治天皇等の名前が書いた紙が張り付けてあった。どうやら価値ある香木らしいということだけが記憶に残った。
後年、天下第一の香木と謳われ、歴代の天下人を魅了した「蘭奢待」という雅名を持つ「黄熟香」という香木であることを知った。一昨年10月開かれた63回「正倉院展」で再見したが、研究者によると50回以上切り取られたらしい。
正倉院の宝物が現在もなお極めて良好な状態で、しかもまとまって保存されているのは、一つには勅封制度によってみだりに開封することがなく、手厚く保護されてきたことによるとされる。また建築の上からみると、巨大な檜材を用いて建てられ、高さ2.7mの高床式の構造であることが、宝物の湿損や虫害を防ぐのに効果があったということは教科書等で学んだところだ。戦後は奈良公園内にある国立博物館で「正倉院展」が開かれるようになったが、これに合わせ、秋の2カ月だけ開放され虫干しされるようになったという。
ここで疑問が湧いてくる。昭和36年当時、真夏に九州からきた修学旅行の高校生達が簡単に中に入れたということは本当だったのかという疑問だ。もしあり得ないとすればあれは「白昼夢」だったのかということになる。どなたかこのことに関し間違いないということであれば、掲示板に投稿して頂けませんか。
もうひとつは、不思議というより粋な体験だった。東京浅草で「SKD夏の踊り」を見たこと。迫力あるお姉さん達のラインダンスに魅了された。また夜の自由行動だったと思うが後楽園遊園地で遊んだ後、後楽園球場が終盤になって無料開放され、初めてナイターを見たことだった。各自、思い思いの自由時間だったが、石原裕次郎の熱烈なファンだったM君は裕次郎の自宅を見てきたと言っていた。心に残る修学旅行の体験だった。