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長崎西高14回生同窓会トピックス

『花の青春』とらんぽりん12

つゆや梅雨 晴れて思い 曇って想うこと

静かに、しかしいきなり、梅雨の季節となりました。と思ったら、入梅して2日もしないうち、早や「梅雨の晴れ間です」
「で、湿度は30%…」と、これはまたさっぱり粋な、お天道さまの日替わりサービス。さぁ、晴れか雨続きか、本番はどうなることでしょう。

先日、新幹線に乗った折、あいにく往復とも曇り空。富士山は見えなかった。その後に東京スカイツリーの近くを電車で往復した際には、車窓から仰ぎ見るツリーは、その腰から上は雲隠れして、幽玄。
やぁ、 見えない風情もまた安らぎを誘って、なかなかいいものだと思いました。

「四季の日本」といわれますが、これは大事な視点を忘れている。日本には春・夏・秋・冬に、も一つ、れっきとして一区画の長雨シーズン、つまり梅雨時があります。それゆえ事実上の日本は「五季」なのだと。これは以前にどなたか指摘されており、以来、なるほど「そうだ、その通りだ」と、私もハタと膝を打ちました。言い得て妙であるばかりか、これは案外に日本における正確な気候認識ではないかと。実際に、 四季よりも日本には五季ありの説の方が、古今いろいろの文化・風土・文物のあれこれを説明できそうです。
大雨に苦しむ民を憂いて、どれほど待望久しい雨だとはいえ……それが「過ぎれば民の嘆きなり、八大龍王雨やめ給え」と歌った鎌倉の源実朝さん。この方にはもっと長生きして、もっと多くの佳歌を後世に残してもらいたかった、惜しい夭折です。
「雨、あめ、降れ、ふれ、母さんが、蛇の目でお迎え、うれしいな…」
「雨ふりお月さーん、雲の陰」
「雨よ降れふれ〜 涙を流すまで〜〜」

ただし、「長崎は今日も雨だった」は、また別の話。長崎市内は特に港とそれを囲む山々の上を一日に何度も夏雲が急に行き交う地形の影響で、空気が多量の湿気を含み、それを吐き出してすぐ、また短い時間の夕立となることがやたら多かった、と痛感しましたが、最近はどうでしょうか。ついてはこの歌の雨は、強いて梅雨どきの長崎の雨を指すのではなかろうと……。しかし、長崎では紫陽花の花を象徴として、梅雨どきにはこの地にもしっかり雨があることをいっそう示唆します。

そうそう「紫陽花」こそ、日本に五季がある、生き証人?なんでした。
独立して、春でもない、夏でもない、この時期。梅雨冷えなどといい、極端に寒い日もあるし、湿度80パーセント以上の蒸し暑い熱帯の日々もある。
梅雨どきの長雨は古来、悲惨幾多の災害を呼んだことか、と思い起こすまでもなく、また、ほどのよい雨量であるかどうかも問わず、雨が無なければ無いでそれをわざわざ「空梅雨(カラつゆ)」という。でカラ梅雨の年もあれば、昨年のような猛暑続きいつまでも夏の押せ押せで「今年は秋がなかった」と言われる変則の年もある。それだからと「日本は三季から五季」の真ん中とって「四季」なのではない。
梅の実の熟する時の雨期として、独立して、梅雨時は「一季節」である。
(ココンところ、板垣死すとも自由は死せず、張りに、何かを強固に主張するものでもありません)
温厚ゆったりと論を進めて、雨の季節の風情をそれなりに嘉(よ)みするものであらまほしく。

梅雨に梅の字あり、からの関わりからこんな話を。
ある土曜日、梅雨の晴れ間に、友人とバラの花咲く公園・散歩としゃれて、おむすびやお茶を持ち合い、小さな遠足をいたしました。そのとき「コレ、おいしいから」と大きな、南高梅の、昔風に質素に漬けた梅干しを一個勧められました。そうやって始まった思いの外の梅干しバトル。
本格・昔タイプの梅干しの味の、なんとまぁ気合が入って「酸っぱいこと」よ。
物には底力というものがあるのだ。いやはや梅干しの真の酸力?とは、かくの如く峻烈であったか。中央の「種」の部分に近づくほど、刻一刻、酸っぱいさが増し、ついにその刺激は脳天脳髄にまで至る。耕して天に至るのは稲田だけではなかった。久しく忘れていたこの奥深く異次元の味覚。噛みススムほどに、哀れ我がしかめッ面は、顎(あご)の筋肉のどこがどう動いているのか、こりゃまた梅干しでなければ、この如き顔面渋面、おかめ・ひょっとこ十面相の顔面筋トレ戦の勃発はありえません。(やってごらんなさいよ。もし、他人事とお笑いなら。ただし、戦いは本格派梅干し相手に限る)
驚きましたねー。日本文化特産物「梅干し」の底力。されば、おむすびの甘くおいしかったことよ。
南高梅の夢の一撃から目覚めて、想うに、稲作にぜーったい梅雨の季節は欠かせない。見渡して、世界の国々は是非とも(彼らの国の気候は)四季であろうとも、日本は、間違いなく梅雨季を正式科目とする、「五季の国」でありますよと。
こりゃあ、惜しかった。2020年オリンピック招致のキャンペーンで「世界に一つしかない五季の国・美しい日本」とアピールし、さらに強力に祖国の積極セールスをしてもよかった。安全・安心・財布を落としてもきちんと本人に戻って来る「美しい日本人の心」も、この瑞々しい五季の風土があってこそ培われたのですと。最近も、財布が中身丸ごと戻ってきた感動の体験実録、生き証人も一人あるよ!

第一、あの富士山の姿の奇跡的で美しいこと。

近く、世界遺産に正式に登録されることが確実となりそうな(確実、と、なりそう…は、矛盾する?)我が霊峰・富士について。では、そのどこが驚きかといったら……、なんとそれは「偉大なる平凡である」…のだそうだ。外国ではそう評するのだそうです。何それ?と言う前に、そう言われれば、そんな気がしないでもない。富士山と平凡、この組み合わせ、発想の意外さの中に、何だかそう言われれば一理あるような気がしてくる。もっとも、こう簡単に他人の意見に感化されるようじゃぁ、情けないと、我ながら心細い。いやぁ実に日本人として意表を突かれた、と率直正直に驚くのです。小は梅干し、大は富士山相手に、何かと気軽に驚く、この無責任な横幅というのか、いい加減さ。

富士山の特徴を初めてこのように評した外国人は、エライ。コロンブスの卵……の発想くらいにも、きりっとして、エライではありませんか。
まずもって日本人は、富士山この恐れ多くも至宝の名山を、人間で言えば「ただの人」にも相当する「平凡な」山と言い切る勇気があっただろうか。誰か一人でも、かつて。
その派生の文化としては、砂時計の砂の盛り上がる(ではなくずり落ちる)形で、日本各地に「地元富士」が多くある。偉大ではないが、平凡の形において「富士山」に共通するヨと、ちょっと似を喜ぶ文化が。小野小町式の地元版で、本家にチョイと似て、チョイと人気の愛嬌でもつ、平凡ながらの美。
しかし、本来、非凡であれば、他者がチョイと似たくても、元が似ても似つかないのだから、似られる?富士は、やはり平凡の極致なのでしょう。その極致に至ることこそが偉大なのかも。
もしかして、このオリジナル発言をした人は、原語の表現では、「大いなる、標準形」とか「畏怖はするが一般的でもある山姿よ」との余韻の表現をしたのかもしれない。正確な原語を知りたいものです。
それにつけても、広く、大きく、遠く、しかも日本の中央ど真ん中に位置する雄大で厳かな富士の姿よ。
不思議、不思議、霊妙不可思議、と不思議のタネは不尽なのです。

そういえば昔、中学の理科の先生が黒板に「それにつけても」と書いて、「ハイ今日はここで授業はオワリっ。私はこの黒板にこう書きますが、この後の言葉は、君たちも自由にノートに書いてみなさい」と言って、ご自分は〈それにつけても〉のあとに「金の欲しさよ」と書かれた。
以来、半世紀。その当時の理科の授業内容はさっぱり覚えていないけれども、〈それにつけても〉といえば、自動的にその後半の言葉が続く。
実に富士山に負けないくらい永遠の、そして平凡ながら偉大な人の世の心理にして人情倫理を、早や中学生のなぜか理科の授業で学んだのであります。理がつけば、なるほど、倫理も心理も、「理」科ではありますぞな。もし。

2013/6/7 ながた みほ

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