尾崎行雄さんの死を惜しむ
高校球児の夏が到来した6月14日、『怪童死す』のニュースを知り、愕然とした。
その瞬間に高校3年の熱闘の夏が甦った。それは、あの西九州大会の決勝戦に破れた無念の翌日、親父に「甲子園を観に行きたか」と願い、頼み込んだ。
初めて関門海峡を一人で渡る旅立ちは世の中の厳しさを知るスタートでもあった。
蔦の生い茂るあこがれの甲子園球場で3日間、試合観戦した中で「浪商高」のあまりにも高いレベルのゲームには驚愕したし、「法政二高」の都会センスのプレーにも驚嘆した。高校野球の歴史に残る3番名勝負となる「法政の柴田勲と浪商の尾崎行雄の対決」の3回目は見られなかったが充分堪能した。小天狗の鼻もペシャンコになった屈辱の苦い夏は暑かったナァ。
次に東京へ行った、大都会には驚かなかったが後楽園球場では感激した。プロ野球の巨人戦で座席はセンターの外野席、初めてのナイター観戦は満員なのに島主審の「ストライク」の美声が綺麗に聞こえ、好プレーには球場全体がどよめく雰囲気はしばし夢世界となり「こんな所でやりたか!」と思ったものだった。現実はそんなに甘く無いことを数年後に実感するのだが……。
その甲子園の優勝投手は進化を続けて東映の尾崎として怪童の愛称で親しまれ日本プロ野球の≪歴代c純涛且閨竄フ栄光を掴んだと思う。
同期入団でも対戦や会話はなかったが、西宮球場の最前列で覗く投球術は圧巻だった。同僚の強打者が空を切り続ける、異次元のプレーヤーだった。あの童顔で笑顔の姿は今も鮮明だ。スピードガンの無い時代、160キロは超えていたとのOB仲間の話でもある。それだけでなくプレート度胸に加え守備やハートにも≪品格≫があった、凄かった。まさに怪童に相応しい千両役者、ストレートに拘り、18歳で20勝して新人王を獲得、伝説の人になった。
しかし現役は剛腕の宿命か肩を痛めて12年の短命だった、前半の6年間で100勝以上を挙げるも後半は棘の道が延々と続く姿を幾度かファンとして球場で観て感動した、そのスタイルは挫折を受けてもユニホーム脱ぐ最後まで≪直球一直線≫を貫いたのはプロの真髄だった。
球界は今も尾崎さんの夢を追い続けていると言っても過言ではなかろう。野球技術が著しく向上した近代は、変化球主体だが“投手はやっぱし直球だ”に拘る。その魅力の究極を追い求めから発展する……か。
退団後は要職を断り「野球を愛する」姿勢を貫かれたとの報道に接し、そのすがすがしさに敬意を抱き、1歳年下の尾崎さんの若すぎる死を悼む。
私にとってライバルでない球友として、野球だけでなく生き方にも多くのヒントを戴いた方として、一度親しくまみえたかった人でもあった。
我が青春の1ページが消えていく……怪童のご冥福を祈る、合掌。