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長崎西高14回生同窓会トピックス

戦後の長崎と少年時代・・・(1)

今年はテレビ放送が開始されて満60年になる。昭和28年2月1日にNHK東京放送が、同年8月28日には日本テレビが、民法初となるテレビの本放送を開始した。当時小学校4年生だった自分にとってはどこかよその国の出来ごとであり、身近な物はラジオであって、「笛吹童子」や「紅孔雀」に夢中になっていた時代だった。
ところがこれより1年前、昭和27年4月に長崎でテレビ放送が行われたことをご存じだろうか?

但し実験放送ではあったが・・・。この時、「復興平和博覧会」が現長崎市公会堂が建っている場所(多分)で開催され、その中の一環としてテレビの実験放送が行われた。会場の一角にステージが設けられ、女性コーラスが合唱していた。そこから少し離れた場所に特設小屋が建てられ、室内は暗室同様、中には受像機がいくつかあって、「押すな押すな」の大盛況だった。ひとつの画面は10インチくらいだったか、それを収めた外箱は巨大で、人の背丈より高かった。画像はもちろん白黒だが、かなり鮮明で、今ステージで歌っている女性グループがこの小さな画面の中でも歌っているのが、子供心に驚きだった。当時は市内のアチコチにまだ瓦礫の山が残っており、道路は未整備で雨が降るとぬかるんだ。

長崎でテレビの本放送が開始されたのが昭和33年12月22日、まずNHK長崎放送が総合テレビの放送を開始した。遅れること10日、翌年1月1日にNBC長崎放送がテレビ放送を開始した。この昭和33年にテレビ受信契約数は全国で100万を突破した。翌年頃には我が家にも受像機が届いた。まさに「三丁目の夕日」の世界だった。

テレビ放送があるということは電波塔が必要で、それは稲佐山頂上に建てられた。稲佐山は母校の小学校校歌の冒頭に歌われているように身近な山で、遠足と言えば稲佐山だった。中腹より上の道路は拡幅整備中で、砂利道を1時間以上かけて登った。電波塔がある所は山頂が狭いため、そこを迂回して、現在、野外ステージある所が目的地だった。何にもない禿山で、確か千畳敷と呼ばれていた。弁当を平らげた後、それを包んでいた風呂敷と箸で鞍馬天狗の被りものを作り、チャンバラごっこが始まった。

稲佐山登山道路が開通したのが昭和32年4月、中2の時だった。昭和34年10月に、長崎ロープウェイが開通。西高1年にあがっていた。通学途中に山麓の発着駅「渕神社」の前を通る。ある朝、素敵な若い女性がほほ笑んで会釈をしたあと、神社の階段を上っていった。誰だったか最初はわからなかったが、中学3年の時の同級生の女の子であったことを思い出した。すでに社会人になって見違えるほど大人っぽくなり、山頂の展望台でウェイトレスとして働いていたのだった。以来毎朝、渕神社前を通るのが楽しみとなった。ある時展望台に行ってコーヒーを注文した。しかしそれ以降どうなったのか消息を知らない。淡い思い出だった。

今や、稲佐山は、函館、神戸と並んで日本三大夜景と位置づけられ、昨年10月にはモナコ、香港と並び世界新三大夜景として認定されたという。

また長崎出身のさだまさし、地元稲佐出身の福山雅治などが野外コンサートを行っているというが、60年ほど前に無邪気にチャンバラごっこをやっていた自分には想像もできないことだった。

2013/8/19 右田 俊博

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