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長崎西高14回生同窓会トピックス

戦後の長崎と少年時代・・・(2)

現在の稲佐橋は3代目で、拡幅も広くモダンな造りとなっているが、自分が小学校の頃は二代目稲佐橋で上部が鉄製の二連アーチになっていた。この稲佐橋を渡って坂道をあがったところに40mx50mほどの稲佐公園がある。かつて淵郷公園といわれたが、それ以前は小学校1、2年頃まで戦後のドヤ街があった。中には豚を飼ってある所もあり、悪臭もひどかった。

また、橋を渡って左側は斎場などの施設があるが、かつては長崎バスの駐車場があったりした。この場所が戦後しばらくはコンクリートなどの瓦礫置き場となっていて、高さ7〜8mはあったろうか。小学1、2年の頃わんぱく仲間と「探検」と称してその瓦礫の山を登っていった。その上は窪地となっていて直径2〜30mはあっただろう、なんと満々と透明な水を蓄えた池になっていたのだ。さらに草1本も見えず、まるで異星に降り立った感じがした。この瓦礫の山はいつの間にか無くなっていた。

稲佐山登山道の道路に沿った傾斜地に稲佐国際墓地がある。この墓地は当時荒れ果てていて、格好の遊び場だった。鉄製のかまぼこ型の墓石(?)は馬乗りに早変わり。
長じて分かったことはこの墓地の大半はロシア人の墓地で、明治20年代の長崎には欧米の商船、軍艦などが頻繁に出入りした。梅香崎や稲佐一帯は外国船員や水兵で賑わったという。中でもロシア東洋艦隊は越冬のために毎年のように長崎港に寄港した。そこで病死した船員を葬るため、慶長3年開山の名刹稲佐の「悟真寺」の墓地に葬られた。独特の十字架の墓碑はロシア正教のもので、ロシアと長崎の交流の歴史を物語っているが、当時小学4,5年のわんぱく盛りには、そんな事情は知る由もなく、無邪気に遊んでいたのだ。異国で地下に眠る外国人はどう思っていただろうか?

昭和30年8月8日、北村西望作の「平和祈念像」の除幕式が行われた。当時6年生だったが、2学期になって早速クラスで図工の時間に写生に出かけた。大きくて筋骨隆々とした威厳のあるこの像に圧倒された。写生は、水彩画ながら油絵タッチで描いて、我ながらよくできたと思う。

中学生になって、西高とは指呼の間にある淵中学校に進学した。現在三菱重工の野球グランドがある一帯は貯木場で大きな材木が多数浮かべられていた。学校の帰りに寄り道して角材の上に乗って遊んだ。今だったら考えられない危険な行動だが、当時怒られた記憶は無い。またこの前を通る道路は舗装されてなくて、時々荷物を運ぶ馬車が親方に引かれて通った。親方に見つからないよう、馬車の荷台の後ろにぶら下がったりしたものだった。この頃まではのどかな時代が続いていた。

2013/9/2 右田 俊博

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