戦後しばらくの間、長崎にはちゃんとした劇場、公会堂みたいなものはなかった。それに代わるものとして三菱重工が出島に持っていた「三菱会館」がその役目を果たした。有名な歌手のコンサートを始め、観劇などが興行された。 ある時、日本初のフライ級世界チャンピオン「白井義雄」のエキジビションゲームも行われ、親戚のお兄さんに連れて行ってもらった。ついでながら昭和30年(6年生)頃には力道山が外人レスラーを帯同して、プロレス興行が競輪場で行われた。その興行も彼に連れていってもらい、見せてもらった。
長崎は三菱の企業城下町と云われるが、当時は三菱重工、三菱電機、三菱製鋼以外には太洋漁業くらいしか目ぼしい企業はなく、父親が重工の技師だったのが、少し誇らしかった。小学生の頃、午後から急に雨が降ったりすると、父の傘を持って、稲佐から飽の浦まで歩いて届けに行かされた。それが結構楽しかったりした。その三菱が昭和32年10月、保有するグラバー邸を長崎市に寄贈した。これにより、歴史的史跡が公有のものとなり、その後整備が進んで、長崎の一大観光スポットとなった。
小学校の5〜6年の頃だったか、長崎県立図書館が市内の小学生20名程を集め、「子供会」を結成することになった。担任の先生がその辺のコネがあったのか、稲佐小から後に西高同期で秀才の一人になる I 君と自分の2名を推薦してくれた。行ってみると、勝山 新興善、磨屋、佐古、伊良林等の中心部の小学生がほとんどで、同じ市内でもだいぶ垢抜けした感じがして、田舎と都会の違いかなと感じたものだが、遣ることは人形劇、童話の語り、朗読などで、広く集めた子供会の世話役みたいなことをやった。現在、勝山 新興善、磨屋小学校は統廃合され「桜町小学校」になったそうだが、この三校出身の西高同期の方も居られることだろう。母校がなくなった心境はいかばかりか。
この長崎県立図書館に通っている頃、長崎奉行所の厖大な記録が収められたカビ臭い資料室を見せてもらった。この人こそ後に「長崎犯科帳」として世に出した館長の森永種夫さんだった。その他にもシーボルトの服とかいろいろな歴史的資料があったが、今だったらもっと興奮して見ていただろう。60歳を過ぎて長崎に帰省するたびに、知らなかった長崎の歴史を発見する。長崎は江戸の昔から、庶民による伝統行事、「ハタ揚げ、ペーロン、精霊流し、くんち」等が営々と繰り返され、それが他にはない長崎の大きな財産になっているのではないだろうか。
市役所前から県庁にかけての官庁街の広い通りは、小学校の頃はまだ未整備の通りだった。おくんちの時は、諏訪神社の神輿の行列が大波止に設置されたお旅所との間を往還する道路で、道の両側には多くの出店、見世物小屋が立ち並び、毎年サーカスが来て、それを見るのが楽しみだった。この大通りも昭和35年(高2)には中央グリ−ンベルトも設置され、ほぼ現在の姿になったという。そういえば「大波止の鉄砲ン球」と呼ばれた直径5、60cm程の鉄球が海に面して鎮座していた。今でもあるのだろうか。あとで分かったことだが、この鉄球は島原の乱の時、原城攻撃の砲丸として長崎で鋳造されたそうだ。大砲はどうするつもりだったのか。結局使われずそのまま残ったそうだが、よくぞ昭和の戦争の時徴集されなかったものだ。そんな面白い歴史の遺物があるところが長崎の面白さだ。
3回に亘って長々と取り止めのないことを書き連ねてきましたが、トピックス蘭の埋め草にでもなればと思って投稿しました。お付き合い頂き、ありがとうございました。
(参考資料:「‘89長崎市制施行100周年 長崎100」、Wikipedia他)