「いたずら」
秋風がさみしい
と思い始めたら
強く生きねばならぬ
むかし昔
マンモスを追いかけている人が
森の尽きるところで
ふいに秋風にあった
ああ自分は生きているのだ
人は強く生きねばならぬ
秋風は人のこころを
不意に試すのだから
(詩・ながた みほ)
さみしい……平仮名で「さみしい」と皮膚に感じるような「秋風」にはまだ遠い、いつまでも猛暑の名残りを引っ張っている、今の時節です。
9月22日に、長崎陸上競技場で、女子サッカー2013、ワールドチャレンジ!!日本×ナイジェリア線が行われました。その具体的な場所がわからず、もしやチラッと西高の校舎がどこかに映るかと期待しても、高校野球の学校紹介とはちがうのだから、そんなはずもなく、サッカーを観戦しました。当夜の競技場は、湿度が66%、温度が26度とか。夕方ではあり、日中の天候は秋らしいのか、そうでないのか、ちょっとわかりません。
ふだん、とかく「報道」場面だけで知り、どこそこは大雨のようだと案じて電話お見舞い等をすると、「全然こっちは降らんで、困っとる」などということがあり、お互いに、日本列島の季節を生きるのも楽じゃない。
また秋が来て、さて去年の今頃私は何を考えていたのか。よーく覚えています。何しろその五月の「古稀記念同窓会」のあとなので、少しは人生に緊張して、人間の年齢行動及び、いろいろな場面での「その引き際」つまり出所進退の妙について、いろいろ思いを巡らせていました。
別に去年に限ってこの問いを始めたのではなく、我ながら変わり者で、20代は愚か、30〜40の当時から心の隅では隠遁がテーマでした。別に珍しくもない、これは高校の教科書にもある、唐詩や、漢詩の影響で、東洋での一つの文学的処世術でもありますから。
私の場合は、とくに『桃源郷』の作者、中国・六朝時代・東晋の詩人、陶淵明(紀元365年生〜427年没)に強い関心をもちました。この先人は、田園詩人、自然派詩人として後世の文学文化に強い影響力をもち、その人間的な親しみやすい一面が良く知られています。とくにお酒が大好きで、また飲酒の歌も俄然多く、一般に、お酒でトロンとなって、イーイ心持ちになる「陶然」という言葉は、もしかして、この人の名前に由来するのでは、と私は考えていますが、どうだろうか。
しかし何といってもその人柄の面目躍如なのは、作品中に、「本を読んだら、目茶苦茶その意味を本格的に理解しよう」、とはしないサ、とか、いくらお酒が好きだと言っても、「それが有ればある」でいいし、「なきャ、無いでいいサ」という、究極のアバウト精神が、痛く気に入ったからからです。よかとよ、読解力はだいたいがワカットケバ……というところです。(またまた、毒か威力かだって)
学生にとって、お酒はともかく、読書の態度として、何が何でも原文の正確な翻訳……だとか、文の真意の理解だとか、そんなことは別にしなくったっていいという詩句。こんな、不勉強好きの輩に嬉しい先例はありません。(この話は『五柳先生伝』中にあります)
おまけにこの先生は(つまり陶淵明・先生)は、現代なら地方公務員……、といっても下級貴族出身ではあり、当時の官僚社会では国家が任命する地方役人なりのトップという立場。
で、先生、思えらく。ナンダよ、給料は安いくせに、本庁?の中央から来る役人は、メッチャ威張りまくっている、あんなのに、空威張りされて、こちらは安給料で、ナノやってらレルかということを(もう少し上品に、しかも多分、中国語で)啖呵を切って、ほんとにさっさと公務員を辞め田舎に帰ってしまった。(『帰去来の辞』)。そうして田舎に帰っても、何とかやっていけるというところが、今も昔も普通の市民階級の人間の羨望するところです。先生、お決まりの子沢山の貧乏暮らし。でも、帰る故郷も、耕す田畑もあったから、万事、自然万能の昔の生活ではあり、暮らしはなんとかなった。
という例で、これも、一種の人間の引き際のあり方例です。しかし、いくら現代が長寿社会だといっても、この時、先生41歳……。まだ十代後半(すなわち高校生時代)の私には、これに鮮烈な印象を受けたのだった。なんと若いのに潔よく、きっぱりとした退職・引退・だなぁと。
この先生の場合は隠者(隠遁者)生活と言われます。隠者は修行者に近い雰囲気をもちます。
今も昔も、その年齢に関わりなく、物事の引き際はきれい・清潔な方がよいに決まっています。
しかし、現実には、対する世間にはことごとく、それなりの相手というものがあり、こちらが引いても、相手が押してくる、また隠遁したといって急に、勝手に、その人が身を引いていても、それはある程度表明してもらわなければ、外から、判らない。単に老け込んだかと思われ(るのもシャクながら)、自然体のご無沙汰とはまたちがう一面がある。
と案外に対処が難題なのです。その点、公務員だとか一般的に会社勤務の方々に定年的な区切りがあるのは、自他共にわかりやすくていい。これも現実には、いろいろな事情が絡み、とくに長寿社会になって、複雑な人間模様に生活上の欲得が絡み、内実には煩多に面倒があるでしょう。
一年前のちょうど今頃の私は、折から一冊の本を読んでいて、やっぱり人間の引き際の美しさは、その人の人間性そのものだと深く印象を新たにしておりました。
それは、アメリカの現代の偉人と言っていい(と私は尊敬する)四星将軍であった、コリン・パウエルさんの自叙伝です。わざとゆっくり時間をかけ、内容を噛みしめ噛みしめしての読書。参考までに刊行は「飛鳥新社」1700円。ビジネス書とはいえ、もっと高い位置にある人間の書だと思う。
四星は☆☆☆☆。海軍・空軍・陸軍、そして海兵隊の四つのトップになった将軍をいうのだそうで、
三星でさえも簡単にはなれない歴々の中に、(殊にこの方が黒人として、というところが強調されるのは、アメリカという国柄でしょう)あって、です。
この四星将軍が、軍隊組織という特別に階級制度の厳しい世界にあって、さまざまに体験されたのは、その階級を退職してからも往々にして見受けられる人々の現実の姿、と或る傾向でした。それらは、その人の未練か・見栄か・勘違いか・不見識かは知らず、恋々として以前の階級の威光を忘れられず、引き際の見苦しさを見せる人々への、率直な嘆き、または反面教師としての学び。
ご自身は、軍人としての職歴を全うした後も、「ペプシ工場の清掃夫から国務長官にまで上がり詰めた」と称賛される活躍の以後は、キレイさっぱりと民間人となられた。家庭の良き夫・父・祖父として、その所属する地区の教会教区の教育活動を主にし、心血を注いで、多くの特に何らかの助けを必要とする人々を励まし、補助して、やっぱり存在それ自身で世の中に寄与しておられるのです。私はその自伝的、ビジネス書の中に、特に「引き際の美」への教訓を印象深く、受け止めました。真の武士道にも通じる、ではなく、日本式に言えば天晴れ、武士であるアメリカ人でしょうか。