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長崎西高14回生同窓会トピックス

「花の青春」とらんぽりん19

「白い花」

泰山木
誰が初めにそう名づけたか

芳香は千里
飛ぶ鳥は友

大河は姉
天空は心

太古の風も覚えてい
ゆうべの雨も遊ばせた
そんな気がする
またの名は大花玉蘭

     (詩・ながた みほ)

大花玉蘭は タイカギョクラン。 これ以上の、泰山木につけるニックネームはなさそうな、 自分がこの花 なら重くて首がいたくなるような。

もう、何回目かわからなくなった「花の青春」とらんぽりんです。あとから調べます。
で、久しぶりとなると、伝えたいこと、語りたいこと、話したいこと、書きたいことが(…みんな同じ意味 か)、大となく小となく、こんがらがってきます。
そもそも、その混乱の元をたどれば、このホームページが開場した頃のこと、およびその折り、仮に月刊 誌なら「定期的な寄稿を頼みますよ」的な、幹事団の方からお声がかかったころに始まります。

ちょうどそのころ、世間で言えば私個人の「店じまい」を考えていました。個人であれ、団体であれ、大小 となく、一軒の店を構えていると、なかなか忽然と「店じまい」またはドロン、または急に沈黙はできないも のです。私の場合、個人ではあるけれども、大半の仕事先が法人また会社等なので、一夜にしてドロン と行きたいけれど、なかなかそうはいかない。ボケタふりなんて癪ですし。第一ボケナイ。

自由業というと、「自由にできる職業」と思っている人が大変多いのですが、なかなか。
すべての責任とそれに伴う事務作業を一人で片づけるので、また代替の要員がいないので、金銭はもと より不自由こに極まれことでもある。外観は、好きな事を自由に発言したり、発表したりして、「自由世界 に住んでいる」ように見えて、実際はそれが客観的であるか、普遍性があるのか、個人的でなく、汎用性 があるものか……。自分の葛藤の世界です。それが責任だとも、心得ておる!
そこで、客観的に見せるために多くの場合にみられる現象は、使い古されている固い言葉で、公共性を 装う事です。そこでは自分の考えを簡単に普遍語化する事で、大方と意志の疎通を図ったつもりでいる。

しかし、さぁ、ドロンに因んで言えば、個人がドロンに至るのでも、客観的な理由付けが必要です。 つまり世間への「挨拶」です。
私はふだんから、人生は「挨拶」の有る無しに極まると思っています。明治生まれの祖母から受けた教育 の中からでも、最近ますます、この一点を大切に感じています。なるほど、だと。
そこに高校時代の同窓生が一気に「古稀」になって、神さまの御祓いも受けて、正式なその式典まで行 なっていただいたのだから、「これはいい」。何よりのチャンスである。一般に、誰かが何か言って来たら 「もう古稀なのです」と、断わることも出来る。……と思っていた時期なのでした。
人生には区切りが必要で、暦も季節感も、年齢行事も、すべて「世間と世間での約束の挨拶行事」です。

したがって定期的な寄稿を努力するとなると、そこで一番考えたのは、経験上実際に白内障(手術済み) ・や腱鞘炎等の職業病に類する思いがけないことが起こったらどうしよう、…でした。人生、何が起こるか 分からない。すなわち、これでは、世に言う「這ってでもやります」が通用しない。仕事上それが一番恥ず かしい。這ってでもやれる手段そのものが故障するのだから。
という次第で、このごろ思うのですが、年齢と言うものは不思議なもので、なぜか「年齢と共に、何か いよいよ冴えてくるものがある」……との実感です。
深く人をみる視点の持ち方へ、、物事への考え方の角度、実際の対応の仕方などに、平均して真理的 なものがある。40代には40代の、50代では50代の「それなり」があり、それならば、まだ私たちに、 未経験の80代や90代の「方々」には、若造の古稀ふぜいには想像もつかない、多分素晴らしい境涯 (心境や人生への態度)があるに違いないのです。
私たちは日常、自分より目上の方々が「77歳になりました」とか「80なんですよ」と言われるの接して すごいなー、くらいしか反応できない。これは当然だと思います。またその方々が、いくら言辞を尽くして 年代の効用を語られても、一般に私たちはその真実を体験していないから、理解にも乏しい。

そのくらい、年代には年代の意味深さがある。私はそれを「魂の重量」の世界というのですが、 魂には光=光度があって、それは赤ちゃんも老人も変わらない。赤ちゃんがなにも分からないかと思う と、大間違いでいやー、彼らは敏感で直接的で大したものです。泣く子と地頭には勝てないと、昔の人 は良い事をいったものです。それとは別に重量がある(ように思う)。重ければ良いってものじゃないけ れど、年齢なりの重量がある。それやこれやで、這ってでも出来ない状態は、これがやっかいな事に、 いつ到来するか分からない。ただし、年齢には関係なく、です。
その時、どうするか。そんな事を考えて、まずは右も左もなく、具体的には「とらんぽりん」をスタートしたことでした。

東京オリンピック2020が決定した時、周囲に面白い感想が多く聞こえました。
「いやー、10年先は自分がわからんけど、今度の東京オリンピックの7年先位なら、生きていけそうだ」 この意見は案外多くて、あんまりこう言う事をいう中学・高校生はいないから、だいたいこういうことは 年金世代での率直な感想でしょう。証拠不十分なのに、説得力がある。しかし、10年先は分からない けど7年先なら大丈夫、とは、いい得て妙ではありません。もう第一、それも6年先になりました。

人間お互いさまです。這ってでもやらなければならないこと。そんなにしてまでやる必要のない事、お互い さま、人それぞれそれは違うと思います。今、私は原稿執筆はともかく、急がなければならないことは 蔵書の整理です。こればかりは、「万葉集」と「孫子兵法」を残して、後はぜーんぶ「捨ててしまえ」とは 思うものの、生きている以上、電話帳から郵便番号簿に至るまで、日常、めったに使わないものほど、 いざという時、なきゃ困るものです。今、世の中は、ますます日常的には不便になっています。休日、 祝日は増えるし、その他その他。でも何とか「命そのもの」を這ってでも守ることが、肝心。

そんな中、自分で這ってでも片づけたい仕事の一つとして、最近(直近)私は『詩集』をまとめました。 中で、どういうわけか、思いがけないことに、冒頭の「泰山木」の詩を好きだという方々がある。 実に思いがけないことでした。これぞ大言壮語と夢想の極まる世界と、我ながら想ってましたから。 言ってみれば、阿呆の世界です。(ごめんね、共感した方々には申し訳ない表現です) もっとも、づっとづっと昔、始めて中国の蘇州・杭州を訪ねたとき、、たしか天平山というの名前だったか、 大平原に天狗の鼻のように突き出て、足元から一望千里の体験をしたことがあります。天空に遊ぶ、 という実際の体験です。それが下敷きになっているかも。それやこれやで、詩一つへの反応の体験 からも、世の中は自分で見計らってはいけないものだ、思いがけない気持ちの通う世界(世間)でもあ るのだと感じています。さて、「とらんぽりん」は今回で19回めでした。  ここらで送信いたします。

2014/05/09 ながた みほ

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