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長崎西高14回生同窓会トピックス

「花の青春」とらんぽりん23

前回・前々回の本稿「花の青春」とらんぽりんの内容に引き続いて、今回も、私たちの同期生である、 渡辺造船所社長・渡邉悦治さんの、自伝的ドキュメントのご紹介です。

出典は−−『ながさき人紀行』2 長崎新聞社発行。2011年5月〜2012年4月版。50人のライ フステージ。 経済界から文化人まで、誇りに満ちた生きざまに拍手。と表紙にあり、B5版。各ページ、 カラー写真での人物紹介、その中頃(112〜115頁)の全4頁に掲載されたものです。

何かの物事に関して、何ごとも世の中は半分半分。そんな事は誰でも知っている…と思っていたら、案外 エーッそれは知らなかった、と今更に驚く、そんな人と人の割合がモザイク状になってこの世は成立する。 先日、ちょっと頼みごとがあって、お馴染みの在京同窓会誌『コミュニティ』関係の、西高同窓会の後輩・ 三人と私を入れて四人で、久しぶりに会いました。猛暑の折り柄、暑気払いをしようと洒落たのですが、 集まる理由なんて、本来、電話の一本でも済む用ではありました。それが縁の縁たる、同窓の面白い ところで、当初の二人が三人、三人が四人と自然にそうなった。
そんな中で、自然にこの14回生のホームページの話になったので、それは当たり前の様なつもりでこち らは話していると、中の一人に「私たちにはそのホームページのなかとよ」と残念そうに言われ、なぜか 申し訳ない気持ちになりました。他の二人に聞いてみるということは、しないままに。
これは贅沢で、幸福なことであるのかと、思い知る気持ちになったのです。そこで、さて、「この話題な ら、港の共通項、お互いに通じるだろう」と渡辺造船所の社長さんの話をすると、「あのスロープの、で しょう?」と問い返された。

応えようにも、私にはその辺の具体的な知識も情報も、ないのでした。建築の専門家からの問いかけだ から、きっとそれは間違いない気がする。地元でなら、日頃の新聞テレビの報道、口コミなどで見聞きで き、一般的にもその常識があるのかもしれないのですが。で、その質問にはかえって、仮にどこの造船所 でもその仕掛けがなければ、スルスルと陸から海への新造船の進水式もできなさそうで、だから、なんか 違うような、気もした。つまりどう応えていいのかもわからないのでした。
ここは一つ、チャンスがあったら、ぜひ同社の社長さんか専務さんに教えていただきたいものです。

上記『ながさき人紀行』2の、渡邉社長のページに話が進みます。

今回は、立志伝というのでもないし、向学編というのか、同世代であり、また個々の人生でもある、彼の 青春の学びは「如何なるもの」であったかの、いよいよ核心に迫ります。そういう回顧をするのに、古稀 という人生の時間の区切りは、ちょうどいい節目です。もっとも、それが素晴らしい参考になり、また 真似したくても、もう私たちには間に合わない。少年老い易く学成りがたし。せめて後続の受験予備軍や 現役そして家の内なる孫・子に語り伝えていきたい学びの姿勢です。渡邉悦治社長は……。

『幼いころから工場を手伝った。木造船の外板に使う杉板は、ひび割れしないよう蒸していた。夜通し まきをくべ、水を足した。姉も弟も、家族総出だった』 (『ながさき人紀行』」2から、以下同様)

ここからがいい。

『小学校では高学年から学級委員長を務め、中学校でも成績は上位だった。それでも目立たない生徒だ った。長崎西高−同志社大へ進んだ』

ここから、ちょっと問題。

『この時期を今も悔やんでいる』と。なぜなら『両親は身を粉にして働き、学校へ行かせてくれた。だけど、 自分は死に物狂いの努力をしなかった』
と渡邉さんはあくまでもまじめに、当時の、努力に缺くるなかりしか、を自己反省するのでした。よかよか 結果よければすべて良し…と英語でも習った。それに酒も煙草も賭け事もしない、渡邉さんは、ご両親に とって、このうえなく上出来のお子で、仮にそうでなくても、出来の悪い子ほど可愛いと、育児書にはある。 と−−そうした自己反省は、その時取材の長崎新聞社の記者の方に向かう、感慨でした。それだから、

『毎朝、まず仏壇に手を合わせて、両親にわびています』

現在でも、きっとこれは、ご両親へのお詫びだけではなく、加えて、今日一日、職場でのあらゆる事の 安全祈願であり、無事故の誓いの日々新たな決意の報告でもおありでしょう。こうなると、関連する 沢山の事象に重責を負われる立場、社長さん、というストレスは相当なものにちがいない。

『高校時代は英語が得意だったので、外交官か英語教師に、と思ったりした。だが「長男だから家業を 継がなくては」と、大学では経営に役立つ商学部を選んだ。
 講義を受けながら素朴な疑問を抱いた。「人間の営む経済活動を数式だけで分析できるのか。最も 大切な人間に対する視点が欠けているのではないか」と。

『授業のないときは、いつも学内の図書館にいた。「畳の上の水練」では実戦に役立たないと、尊敬する パナソニックの松下幸之助、ホンダの本田宗一郎など、現場からたたき上げた創業者の伝記や著書に 読みふけった。大学と下宿を電車で往復するだけ、夏休みにはすぐ汽車に飛び乗り、着いた日から工場 を手伝った。』

−−−この辺は、原文の記事レポートのほとんどです。−−− 途中ではありますが、実はこの原文を書 かれた、すなわち渡邉社長に直接取材をされた、同新聞社の記者の方を(署名記事)筆者は存じ上げて いました。かつてその方の東京支社に勤務の時代、お目にかかっているからです。この機会を通して、 一冊の本による再びの邂逅となり、やはりいいお仕事をされているなーと深く敬意を感じております。 先般、本社にお電話した際に伺えば、既に定年で退職されているとのこと。それではこの誌上?を通じて、 正しくは渡邉社長の伝記ご紹介の機会を通して、こうしてお世話になっていることにお礼の気持ちをお伝 えしたいと思います。公私混同もいいところですが、皆様、お許しください。

寄り道から本道に返ると、若き渡邉青年は、かくして『66年、卒業と同時に父の会社に入った』 筆者思うに、この時、その身分は平社員であったのだろうか。家業といえども、就職試験はなかったのだろ うか。コネによる就職ににあたるのだろうか。親孝行で勉強家で、前回既報のごとく、親よりマジメ?な 三代目ゆえに、社員ご一同の推薦だろうか。いろいろ「細かいところ」が気になるのであります。これがもし ボンクラ息子だったら、のちのちの国家的な損失になるところだったので、非常に良かった、のでした。 時代は『漁業が盛んな頃で、長崎港の浪の平−戸町一帯に、にぎやかに並んだ中小造船所は、巻き網や 底引き網の建造に沸いていた。木造船から鋼船への移行期でもあった。昼夜を分かたず仕事に励んだ』と。

家業とは言え、渡邉さんその人が、一流の職人さんでもあったのだと、お手伝いの様子から感じました。

その後、82年お父上の逝去に伴い、『39歳で社長ポストを引き継いだ』
それから、景気の動向の浪に数々の苦労を強いられながらも、『貨物船やタンカーなど建造船種を広げた。 弟たちと相談して多種の受注に備え、近代設備と大型船台を持つ本社工場を新設する』。その時代でも、 廃業する造船所も多かった、そうで、ただ、次なる時代の到来を視座にいれて、渡邉造船所は、自らも廃業 の瀬戸際にあって(90年代、山一証券の経営破綻などの続いた)、社長は白髪、円形脱毛症になるほどの 苦難に直面。しかし、兄弟会議でお互いに『頑張るだけ頑張ってみよう』と、事業継続を決めたのだった。さ すが村上水軍の魂が息を吹き返した、長崎で百年以上の歴史をもつ老舗の造船所の真骨頂でありました。

『中小造船は起伏の多い業界です。兄弟争いなどする暇はありません』そして、やがて……

『全国の船会社や漁業会社から、建造を受注する。貨物船やフェリー、LPG船、漁船、作業船…、あらゆる 造船に間口を広げていきたい。できるだけ既製服ではなく、オーダーメイドで』   頼もしーい!

−−−こうして理解できることは、(株)渡邉造船所の存在は、国家有数の宝としての成長を遂げられて、 現在に至られたのだと。それ故に享けられた先年の光栄です。
一隅を照らすを国宝、というそうですが、一隅をも照らせずして、いかなる希望も全的な灯明となることは できない。頑張りの後ろには、いつも命懸けの気力と努力がある。一所懸命とは、そのことです。
私たちは、この同期のお仲間を誇りとし、いつも声援を送り続けたいものと念じずには、いられません。

2014/09/08 ながた みほ

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