「鶯(うぐいす)の そぞろ蹴(け)ていく 垣の梅 かをりゆらるる 立ち枝(え)なつかし」
『独楽吟』でお馴染みになった、橘暁覧・たちばなあけみ(1812−1868)のお歌です。文化九年〜慶応四年。数え年五十七歳でなくなられており、早い、若い、惜しい。
国学者で歌人。こういう方には、たいてい神職の家の出の方が多い……と予想していたら、意外にも、早くに両親を亡くしたことが大きな転機となって、若くして仏縁あり、大きなお寺の住職について仏経を学び、漢籍に通じ、詩歌をよくした、さらに、名のある師についで書を学び、俳諧の手ほどきを受けられたと。
ただ今、平成27年2月。西高14回生同期生の皆さま方、『トピックス』を覗いてみたら、急に国語乙・古文の教室になっとった、というのでもありませんから、ご安心を。
曙覧さんの伝えられる清廉潔白、その人生のうたは、後半に紹介します。
『2020年東京オリンピック』が決定した時に、一般のこんな声をよくききました。
「……あと十年生きてるかどうかと考えたら、ちょっと自信はないけれど、オリンピックまであと七年かと思うと楽しみが出来、なんか頑張れそうです……」これは、だいたい還暦を過ぎた初老の方々の声でした。別に自分はもうすぐ、くたばると言う予測だった訳ではないけれど……気分は同感…のような。
とかなんとか、と思っていたら最近「オリンピックまで、あと5年です」だって。
あっという間に、もうこの歳月2年分が、飛んで行ったのです。どこへいったのだろう、その2年間は。もっとも幕末の頃の五十七歳といえば、現代と違い、それ相応の古老にも思えます。昔は新幹線もないしゆったりと生きて、刻々の人生そのものの充実感が濃かったのでしょう。
掲示版[960]ミニ同窓会−−の話題に『医者曰く、年と共にあちこち悪くなるから……』との紹介。同期の桜は、自然体の身体そのものが、個人差はあっても共に同期らしく、年代・年齢で共通したものを教えてくれるようです。焦らず、適度の情報交換をして、お互いゆったり生きたいものです。
[960]のミニ同窓会の様子はとても羨ましく、近かったらナァと、長崎まで行けないので昨暮に「医者曰くのお医者さん、ってどなただったのですか」と、琴次郎さんにお電話しました。
すると奥方もお電話に出てくださったので、今度は、奥方と筆者二人で話が盛り上がる・盛り上がる。お互いの昨年の骨折の体験談で、メッチャメチャ話に現実感がある。
当ホームページがあるからこそ、こういう新しい展開、親しみ深い交流が生まれる訳で、よく考えたら、まだご当人にお目にかかっていない?
西の名物・「琴次郎随談」、東の名物・「よりよりだより」で、西は島原の風光と共に、時折奥方も近況話に登場されるからなのでした。微笑ましい夫唱婦随(時どきその逆)の話題を「楽しんでいますよ」と言うと、「悪口ばっかり書いとっとでしょ」。ご冗談を!
「とんでもない、奥方の入院中はどんなに寂しかったかと、切々とした哀愁の報告がありましたよ」。
同期生ともなると、時々、夫唱婦随のどちら側の味方をして敬愛したらよいのか、電話中も、瞬時の判断が欠かせないのが工夫のいる所。実に面白いひとときでした。かくして、ホームページは見えない所でも、盛り上がっております。
また別の話。お医者さまが多い我等の同期生、もうおひとかたのF先生、にも同じ暮に久しぶりにお電話しました。やっぱり、お医者様だから、健康の話になります。
そこで、ついセンセ、センセと私が呼びかけるから、F先生は、「同級生同志でセンセイと呼ぶのは、おかしいですよ」と例によって謙虚。「センセ。気にしないでください。私はふだんから、お医者さんと幼稚園のセンセには、先生と呼ぶんです」とお断り。ほんとだもん。
これ、難しいですね。男子生徒は、後年でも同級のよしみ「○○君」と呼びかけても済むけど、女子生徒は「おじさん」と相手同級生を呼べないし。一度、試しに浜の町の真ん中で、タナカヤの長老に「オジサン」と呼びかけてみたいなぁ。返す刀で「ホームページ維持費、払いましたか」と言われるかも。ハッ。
「笑いは健康にいい」と言う話から、同先生とは『独楽吟』の話へ。
先生によると、橘曙覧の『独楽吟』は知っていたけど、その「楽しみは、背中に柱、前に酒、両手に女、懐に金」のことは知らんですよ」と。
「当然かもしれませんよ。コレ後の時代のパロディですから」と私は言っているのに、なぜか、先生が急に感心しきり。「イヤー両手にオナゴは無理です。無理むり。私は一人でよかよか」
マジメなのか、不マジメなのか、ようわからん。やっぱりこの辺が西高出の男子の限界かなー。大きなお世話でした…。
それにしても、橘曙覧さんはどういう方か。本名は、五十三郎。曙覧の名には、四十三歳の時に改名。家庭環境で言えば、……遠祖には、橘諸兄(たちばなもろえ・684〜757)があり、ナントナク歴史上に覚えのある名前で、左大臣だったそうだから、相当に由緒のある実家です。
その越前福井の商家。紙筆墨の商い、また家伝の薬を製造販売する。こういう大きな商家の出となると、実家・本家・親戚などと周りがうるさく、がっちり固まっており、「三代目」も「八代目」も、ぼーっとしていられない。歴々代々は、家業を引き継げば、さらに盛り立てて益々繁盛させなければと、宿命的にきびしい責任が負わされる。
曙覧大人は学問の人で、本来、紙筆墨に縁があり、家業との相性ばっちりで、それでめでたし・めでたしと、よさそうなものだけれども、商いとなると話は別。学問の有る無しとは別に、性格の向き不向きがある。やがて、家業を異母弟に譲って、別居。
以上主に『橘暁覧全歌集』(水島直文・橋本政宣編注/岩波文庫)を参考にしております。
この別居の以後、「生涯福井に居住し、権勢を望まず富貴を求めず、藩主から勧められた出仕をも辞し、清貧に甘んじ、風雅の生活に歓びを求め、慶応四年(1868)の八月、数え年五十七歳で病没された。同『全歌集』によれば1200首以上の歌があり、中に『独楽吟』と50首余り。以下はその一部です。
「たのしみは 妻子(めこ)むつまじく うちつどい 頭(かしら)ならべて 物をくふ時」
「たのしみは 空暖(あたた)かに うち晴れし 春秋(はるあき)の日に 出(い)であるく時」
「たのしみは 紙をひろげて とる筆の 思ひの外(ほか)に 能(よ)くかけし時」
「たのしみは 銭(ぜに)なくなりて わびをるに 人の来たりて 銭くれし時」
「たのしみは 機(はた)おりたてて 新しき ころもを縫(ぬ)ひて 妻(め)が着する時」
「たのしみは 心をおかぬ 友どちと 笑ひかたりて 腹(はら)をよる時」
「たのしみは 昼寝せしまに 庭(には)ぬらし ふりたる雨を さめてしる時」
平成27年 2月3日
☆☆[特記]謹しんで 後藤健二様の ご冥福を御祈り申し上げます